苫米地英人『超訳「般若心経」』(PHP文庫)

例えば私たちは普段あまり意識せずに「点」という言葉を使います。~「点」とは「位置は確定できるが幅も長さもない(当然、面積もない)もの」です。幅も長さもありませんから、目には見えません。よく黒い丸で「点」を書いたりしますが、書いた瞬間に幅も長さも生まれますから、厳密にはあれは「点」ではありません。「これが点ですよ」と言って指し示したり、取り出したりすることはできないのです。 では、けっして目には見えない「点」は存在しないのでしょうか。そうとは言えません。少なくとも「ここに点がある」と想定することができますし、点を想定できなければ(点の位置が確定できなければ)現実世界でもモノの位置が確定できないなど、さまざまな不都合が生じてしまうでしょう。 ユークリッド幾何学では、点は線分の端や、円の中心として定義されます。線分に端がないはずがありませんし、円には必ず中心があります。とはいっても、点には面積も体積もありません。 ということは、「点」はあるとも言えますし、ないとも言えるということになります。あるとも言えるし、ないとも言える。これこそがまさしく「空」なのです。(p.49-50)

■素晴らしく分かりやすい例示である。だから、言葉の抽象度に則ったかたち色即是空ではなく色即是無なのだと超訳する。この前提知識なしに、般若心経を解釈しようとしてもすべては無であるというような誤解や虚無主義のように誤った解釈をしてしまう可能性がある。各所にこのような分かりやすい例が散りばめられており、具体的に「空」を生きる方法を提案している。苫米地博士の著作はいろいろあるけれどもこれはびっくりした。何回か読み返してもそのたびに発見がある。仏教用語に関する詳細については踏みとどまっているがかなりブレイクダウンしたレベル、学者相手ではなく私のような一般読者にもわかりやすいように簡潔に解説をしてくれている。難しい概念を言葉で伝えることの力量が凄い。

 では、「幸せ」とは何か。それは、「到達すべきゴールを設定し、それに向かうためのベストの選択をすること」です。ゴールに向かう選択をすること自体が「幸せ」なのです。「でも、その結果、不幸な目に遭うかもしれません」 そう思う人は、まだ、結果論に囚われてしまっています。~あなたが到達すべきゴールは、まずは、あなたが「幸せだ」(うれしい、楽しい、気持ちいい、すがすがしい、誇らしいの五つのポジティブ情報)を感じるものを設定しましょう。どんなゴールでそうした感情を得られるかは、シミュレーションしてみればいいでしょう。こうすれば、あなたが行う選択は必ず「幸せ」を感じるための選択になります。そして、この選択自体が「幸せ」に向かう行為ですから、まさにそれ自体で「幸せ」を感じることができるはずです。 これなら、偶然に頼ることなく、「幸せ」をつかむことができるでしょう。(p.194-195)

■これって凄いことが書いてあると思う。素直に読めない状態のときもあるかもしれないがフィルタなしでそのまま受け入れるべきと感じる内容。幸せ≠結果論。自分にとっての「幸せ」の定義→ゴールの設定→ゴールに向かうための選択をする。意識しづらいが、逆に選択の自由がない状態、例えば、強制労働といったものを想定すると、幸せに向かうことの選択ができない状態、あるいは選択をさせない状態、というのが相手を無意識に不幸に陥れる手法になるのかもしれない。応用すると恐ろしいことになるが、例えば、人間を支配している状態が「うれしい」と思う人が、それに向けたゴールを設定し、選択している状態で幸せになるということでもあるから、「空の生き方の方向」は間違ってはいけないという点を補足すべきだと思った。なぜならば、偶然に頼ることなく、戦争が起こせる人がいるかもしれないのだから。

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